合気道開祖の教え

8)武産合気

天地創造(全世界御創造御経綸)の力は『産霊(むすび)の力』です。
この『むすびの力』を用いる技法を『武産合気』と捉えました。昭和34年(1959)4月に発刊された合気道新聞創刊号に次の道文が載っています。 創刊号なので一番大切なことが述べられているはずです。

「吾人は万有万神の律法を明らかにし、宇宙の真理を把握し、身を以て自己の使命に当り、地上経倫完成の為、 人生の勤めを達成せねばなりません」

「茲(ここ)に合気の道を愛究される誠友は先ず真空の気と、空の気を、性(さが)と業とに結び合い、 喰入りながら業の上に科学以て錬磨するのが修行の順序であります」

第2号は『合気道の極意』が述べられますが、第3号に『真空の気と空の気の結び』についての説明があります。

「真空の気は宇宙に充満しています。これは宇宙の万物を生み出す根源であります。空の気は物であります。 それがあるから五体は崩れずに保っております。空の気は重い力を持っております。また五体は空の気で働きます。 身の軽さ、早技は真空の気を以てせねばなりません。空の気は引力を与える縄であります。 自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます」

ここに出ている『真空の気』は『魂の気』、『空の気』は『魄の気』です。 この重い空の気を解脱した融通無碍の技が『気の御わざ』で、次の道歌から『魂(こん)の比礼振り』即ち『武産合気』であることが分かります。 『魂の霊出』は『ますみ玉』と同義です。

「気の御わざ おろちの霊出(ひで)や蜂の霊出 魂(たま)の霊出ふる武産の道」

「気の御わざ 赤白魂やますみ玉 合気の道は小戸の神技」

『魂の比礼振り』については『邪心をはらい清めた精神状態』という註が示されていますが、これが状態を表す言葉であれば、 この道歌は『魂の霊出ふる』と動詞にはならなかったはずです。 私は、ヒラヒラと比礼を振るように『真空の気と空の気を結んだ場所』を動かすという動作が『魂の比礼振り』だと解釈します。 『武産合氣』をまとめられた高橋英雄先生に伺ったところ、「比礼振りとはこうやって(と、ハンカチを振るような仕草をされ)振ることですよ」と教えて頂きました。 なお、開祖は、『魂の比礼振り』を『こんのひれぶり』と発音されていたそうです。

『おろちの比礼』と『蜂の比礼』は『十種の神宝(とくさのかんだから)』ですが、十種の神宝の中に『魂の比礼』は見当たりません。 恐らく、三つ目の比礼である『品物の比礼(くさぐさのもののひれ)』の対語ではないかと考えられますが、神示にある言葉です。

『品物の比礼』は悪鳥や悪獣、妖しいものや邪なものを祓い、退けるものです。 『おろちの比礼』は蛇を祓い退け、その害を癒すもの、『蜂の比礼』は百足や蜂などの害虫を祓い退け、その害を癒すもので、霊力があるとされています。

『魂(こん)の比礼』を道歌では『魂(たま)の霊出』と書き表しているところから、『玉の霊出』と解釈して、図2のように手の平(掌)に出てくるボール状の気(真空の気と空の気の結び)であると理解しました。

魂の霊出

前出の道歌から、この玉が『真澄の玉』で、『青玉』『金剛不壊の珠』『風の玉』『空気の素みたいなもの』あるいは『八光の珠』とも言われているものであることが分かります。
「魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である、その比礼振りは融通無碍で固定したものではない。 ゆえに合気道の技は固定したものではなく、臨機応変、自由自在の技である」

『魂の比礼振り』即ち『真空の気と空の気を結んで導くこと』を会得するためには科学することが必要です。 この科学は、物質科学(魄の科学、物事の表面現象を考察すること)というより精神科学(魂の科学、物事の本質を考察すること)です。 気の科学(宇宙の気の一部が自分の気:天地同根、相手の気と自分の気は一つながり:万物一体)です。
気とは何か、気のエネルギーはどのように出ているのかなどの精神科学をし、 開祖の言葉を「そういうこともあるのだ」という程度に受け入れることが会得のための最初の一歩です。

「合気道はこの魂の比礼振りによって生ずるが、根本はあくまで宇宙の真象のなかより生ずるひびきのなかにあることを忘れてはいけない。 あくまで宇宙の真象をよく眺めるべきである」

山岡鉄舟(1836〜1888、一刀正伝無刀流開祖)も、大悟徹底の後、『剣法邪正弁』で「夫れ、剣法正伝真の極意は、別に法なし、敵の好む処に随ひて勝を得るにあり」 「是れ、余が所謂剣法の真理は万物大極の理を究むると云う所以なり」と宇宙の真象(万物大極の理)を究めることが武道の真理(剣法の真理)を見出すことに繋がると述べています。

気はエネルギーです。
気には体内を巡る『栄気(えいき)』と体外に出ている『衛気(えき)』などがありますが、開祖の魄の気は、体外に出ている衛気のことではないかと思います。 道文には、魂(魂の気)が表に現れるとか、出すとかという表現が見られますが、魂の気(真空の気)と魄の気(空の気)が結ぶということから考えて、共に体外に出て、そこで初めて結ぶことができると考えるからです。 気が見える人に聞くと、この『衛気』は、通常、体表3 cm程度を覆っていて、時に10〜15 mも伸びるそうです。
開祖の体から「金の線」が伸びて出ているというのも、この『気』のことだと思います。 なお、道文で、単に『魄』と言うときは、『肉体、物質』を指すことがあります。

「この世は悉く天之浮橋なのです。ですから各人が信仰の徳によって魂のひれぶりが出来るのです。表に魂が現れ、魄は裏になる。 ・・・これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂のひれぶりといい、又念彼観音力です」

「三千世界一度に開く梅の花というのがあるが、・・・三千世界とは天の浮橋と同時にこの世が魂のひれぶりとなる。 合気道においては、念彼観音力である。勿論、肉体即ち魄がなければ魂が坐らぬし、人のつとめが出来ない。魂の緒、魂を表に出すことであります」

「形(手とか体)より離れた自在の気なる魂、魂によって魄を動かす。この学びなれば形を抜きにして精進せよ。 すべて形(手とか体とか目に見えるもの)にとらわれては電光石火の動きはつかめないのです」

「無手の戦いは魂のひれ振りじゃ。武産の武の精進は茲から出発するのじゃ」という神示によって与えられた合気道の『武産合気』と大東流の『合気』という技法は根本的に違うものになりました。 いずれも『気』に関係していますが、『武産合気』は、魂の気と相手の表に表れた魄の気の結びで、その結んだ部分を動かすことを示しています。 『霊出』という言葉も、体から離れた気を表す言葉です。体から離れた気なので、相手の体に触れないでも結びが出来、相手が宙に跳ぶ理屈です。
これに対して、開祖が惣角先生から学んだ大東流の『合気』は、体外での結びではなく体内(内部筋)の微妙な動きによるもののようです。 佐川幸義宗範(1902〜1998、大東流合気武術)によると、『合気』は「気を合わすことである」、「敵の力を無にする技術」で「内部の動きで相手の力を抜いてしまうことである。 それは気の流れであるとか精神的なものではない」とのことです。
「従来の武芸の人々が口にする『合気』と、私のいう『合気(武産合気)』とは、その内容、本質が根本的に異なる。 このことを皆さんはよく考えてほしいと願うものである」

武産合気には、気の結びがあって気の導きがあります。 導きは『導即倒』『導即剣(剣は"御つるぎ"即ち"合気道"を指す?)』などと表現されています。 人間の体は相手の力を感じると、頭で考えなくても、脊髄反射で体が倒れないように踏ん張ります。 これが空の気(魄の気)の作用で、空の気によって五体は崩れずに立っていることが出来ます。
ところが、相手が力を感じない状態にされて、この空の気が真空の気に結ばれ(イメージで結ぶ)、その結んだ場所(ボール状の気、空気の素、風の玉、真澄の玉)を動かされると、 結んだ気が動いた場所に体が付いて行き導かれて倒れます。これが真空の気と空の気の結びで、気の導きです。 「動けば技になる」というのは、手や体を動かすというよりも、相手と結んだ場所を動かすと考えた方が合理的です。

佐柳孝一先生(1925〜1999)に伝えられた口伝に「合気道は戦わずして、心をサイコロの如し」がありますが、このことを教えています。 サイコロはボール状の気、空気の素、風の玉、真澄の玉です。それを手の平に乗せて、サイコロを振るように動かすのです。

武産合気の稽古は、体を主体とした稽古を長年続けなければ身に付かないものではありません。 相手の気を感じて相手と心を結ぶだけの稽古なら3か月で身に付くと教えられています。 「性(さが)と業とに結び合い」ですから、性(潜在意識)が変わるためには10年は掛かると思って、早い段階から気の稽古をするのが良いと思います。 相手に力を感じさせないようになるために時間が掛かるようです。千里の道も一歩より始まるです。 初心者も「絶対に出来ないと絶対に考えない」で、その内に出来るようになりますので、やってみることが大切です。

「相手の気は相手にまかす。無抵抗主義(相手と力で争わないで、相手に力を感じさせないようになること)には大いなる修行がいる。 しかし心を結ぶには三月で足ります」

「この気体の気でも、大神のみ姿に神習うて人一人の姿の各部の気の稽古をして、表裏のない魂の実在のひれぶり、その霊のひびきを明らかにし、 速やかに実在のもとに現してゆくまで、気の稽古をすべきである。気の稽古は至誠の信仰であり祈りであります」

「合気というものは、初め円を描くこと、つまり対照力(八力)。相手に指一本ふれないでも相手は跳んでしまう。 この一つのものをつくりあげるにも十年くらいはかかる」

相手の気を感じて結ぶために、最初は、気は体外に出てくるものだという認識で、空気のボールをイメージすると良いです(イメージの力が気の力)。 開祖が『比礼』を『霊出』として示されたことは意味があってのことです。
次の剣道道歌は、『霊出』のように体外に出てくる気を感じるために大変参考になります。 剣で切る場合、剣を振り下ろした様をイメージしてからでないと剣を振り下ろせません。 この振り下ろしたというイメージが気で、体より一瞬早く体の前に出て来ます。出て来る気の感じ方は人それぞれのようです。 開祖は光、熱、音で感じましたが、風や電気のようなものとして感じる人もいると思います。

「出でぬ間の山のあなたをおもひやる 心やさきに月を見るらむ」(新陰流六世 徳川光友、尾張2代藩主)

なお、宇宙との一体感(黄金体体験)を経れば、更に体内を巡っている気や脳内にある相手の考えまでも導けるようになるのではないかと思いますが、 これは現段階では私の理解を超えています。それらしい道文を示します。

「合気道は相手が向わない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのです。 そしてこの世界を一目に見るのです。今日ではまだほとんどの人ができていません。私もできていません」

開祖が、「戦前は解らず力で稽古していた。今は力は不要。此れが武産合気じゃ」と言われた、 力が不要の『武産合気』という技法は次の道文に端的に表されています。 相手の手や体を円の外に導くのではなく、相手の力が来ない円の外で、相手の空の気(魄の気)が円の外に出ているその場所を想いやって(結び)、 気で導くのです。

「人を中心にして円を描く。この円内がその人の力の及ぶ範囲なんです。いくら力のある人でもこの円の外には力が行かない。無力なんです。 だから相手をこの円の外において押さえれば、人差し指でも小指ででも押さえることができる。相手はすでに無力になっているのですから」

合気道の稽古で最初に行う体の転換(体の変更、体捌き)を片手取りで行うのは鍛錬法として大切な意味があります。 片手取り鍛錬法を何故行うのか分からない人がいます。その人達が思っているように片手取りが実用性のないものであれば開祖は廃止されていたはずです。
手の平(掌)のことを"手な心(たなごころ)"といいます。
「心気の動きを、その意志をすぐに行動に移すのが"手"である」(『合氣道開祖植芝盛平』)。
相手の気(空の気)が一番出ている場所が掌です。
これは、ペンフィールドの脳地図(1951年にカナダの神経外科医ペンフィールドが、大脳の表皮に弱電流の流れる細い針金で刺激を与えて、 体の動く場所を観察してまとめたもの。注1)からもうなずけることです。 相手の掌に出てくる空の気と真空の気とを結んだものを『霊出』として感じるようにします。

脳の中の地図

図3.ペンフィールドの脳地図
注1)日本学術会議のサイト  おもしろ情報館 「脳の中の地図」より

体の転換に続く立ち技呼吸法も手を取り、入身や転換の稽古をしますが、私は、これらは『魂の比礼振り』の稽古と考えています。 したがって、この時に「体を通して魂の学びを学ぶ、すべて形にとらわれてはいけない。魂(心)が魄(体)を使う」ということを学ばなければなりません。

「合気道は手を見てはいけない。相手を見る必要はありません。姿を見る必要はありません。ものを見る必要もありません。 魂の比礼振りでありますから」という道文は、実際にやってみると分かるようになります。 相手の手とか体を動かそうとしては力と力がぶつかって動かないのです。心(霊出)が動いて初めて手とか体が心に連れられて動きます。 相手の姿かたちを見ないで、出てくる気を感じるようにするのです、山のあなたを想いやるです。 山の端から月が出る様を、月が出る前にイメージするのです。
それが、「相手が歩いてくる。相手を見るのじゃない。ヒビキによって全部読み取ってしまう」ということです。

合気道の呼吸法は呼吸力の養成法と呼ばれていますが、呼吸力(気の力)を高める鍛錬法ではありません。 技の中で呼吸力をどのように発揮したらよいかを鍛錬する方法です。魂の比礼の振り方を学ぶ方法です。 開祖の書に「魂之霊出振 妙精吸収」があります。 魂の比礼振りを行うためには気の力を高めることが必要で、気の力を高めるためには11) 合気道に述べる妙精吸収が必要です。