合気道開祖の教え
9)愛の武道
武産合気は、昭和20年(1945)の白い幽体との稽古を経て確立しました。
それから約5年間、更に研鑽を積まれ『真の合気の道(愛の武道)』を体得し、「よし、この合気をもって地上天国を作ろうと思い立った」とのことです。
「吾人は万有万神の律法を明らかにし、宇宙の真理「(合気道とは?という問に対して)私にいわせれば、真の武道ということができよう。
というのは、宇宙の真理から出てきた武道だからです。
そしてその宇宙は一つのものから分かれてできていて、宇宙全体が一つの家族の様に和合し、平和の極致を表現しております。
こうした宇宙観から出発している合気道は全く愛の武道でなければならないということです。
・・・またこれは日本武道の真の精神でもあります。
我々は地上天国を作る使命を持って、この地上を与えられたのですから、戦争などはもってのほかです」
『真の合気の道』は、
「合気とは『愛』であり、天地の大愛を心として、あらゆるものを愛護することを自己の使命としなければならない。
その使命を完遂するのが真の武の道でなければならない。
真の武は自己に打克ち、敵の戦う心をなくす−いや、敵そのものをなくしてしまう絶対的な自己完成への道なのです。
そして合気の武技は天の理法を体得して、霊肉一体の至上境にまで到達するまでの業であり道程なのです」
ということになります。
神示に、
「武産の武は、形より心を以て、本とし、之の魂のひれぶり、武としての活躍なれば、之大神の愛の氣結(きむすび)である」
「種を有しても大地が愛をすくってうけてくれねば結び生ぜぬ。
故に、初の兆の愛の氣に結びて武産の愛の氣を以て業を生め、一時のからくりでなく、神業の神力が生じてくる」
「皆、空に愛の氣を生じて一切を抱擁する。之、武産なり」とあります。
この神示に応えるものが出来上がったのが開祖69歳の時のことです。
この時、神示を受けられた者として特別な神事(報告)を行われたことと思いますが、それをうかがい知ることは出来ません。
「この武産の武の道こそ、天地人を和合させ得る神の『愛』の力の大道なのである」
戦後に作られた道歌に『真の合気の道』が『愛の武道』であることを歌ったものがあります。
戦前の道歌にあった『敵』という言葉が少なくなり、戦後は『愛』が歌われます。
「合気とは愛の(愛が?)力の本にして 愛はますます栄えゆくべし」
「おのころに常立なして中に生く 愛の構えは山びこの道」
「主の至愛ひびき生れし大宇宙 御いとなみぞ生れ出てたる」
「主の御親至愛の心大みそら 世のいとなみの本となりぬる」
この道歌を見た時、「相手がこう打ってきたら、こう受ける」等々、日々の稽古の中で心を悩ますことが多くて、考えが「武は矛を止ましむる」
という所で止まっていると、『愛の武道』と聞くと「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と言われているような気がして来ると思います。
そして、ここまで来ると合気道はもはや実際に役立つ武道ではなくなった、あるいは宗教的になってしまったと感じるのではないでしょうか。
しかし、ちょっと待てです。
王仁三郎師の言葉に
「武は矛を止めしむるの意でありまして、破壊殺傷の術ではありません。
地上に神の御心の実現する破邪顕正の道こそ真の武道であります」
とあります。
武は"未然"に矛を止ましむるのです。自分を浄めるので万物一体の世が浄まるのです。
『破邪顕正の道』即ち『真の武道』なのです。
「真の武道に敵はない、真の武道とは愛の働きである。
それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。
愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の道こそ愛の現れなのである」
人間が特別な力を発揮出来るのは、「勝たねばならない」「合格しなければならない」と頑張っている時と愛する家族や国のためにと思っている時です。
しかし、「せねばならない」は恐れの裏返しです。アドレナリンが一杯出て、体を硬くします。
それで、剣道では恐れ(懼れ)を『驚き、懼れ、疑い、惑う』という四病の一つとしています。
本当の力は母親が子供を守る時に出てくる力のように自分の命をも恐れない『愛の力』です。
吉田松陰(1830〜1859)を突き動かした力も国を愛する力でした。
吉田松陰のように、『愛の力』は日頃からの鍛錬、心掛けで出せるようになります。
これは、いわゆる集中力ではありません。もっと人間存在の深いところから出てくる力です。
出るか出ないか分からない火事場の馬鹿力と一緒に考えて皮相の鍛錬に陥らないことが肝要かと思います。
天地創造(全世界御創造御経綸)の力は『生成化育の力』であり、また『万有愛護の力』でもあります。
「合気は"愛気"に通じ、生きとし生きるものの"愛"の働きを示したものにほかならない。
この愛の働きが、宇宙を形づくるものであって、宇宙の総てのものを清浄にする。
この働きこそが、宇宙万物を護り育て、これを生々発展せしめるものである」
自分と宇宙、自分と相手は繋がっている一つのものです。そこには自在に影響を与えることが出来る『愛の力』が存在します。
だから、そこにはもはや勝ち負けが存在しないのです。
「すなはち常に勝っている境地です。相手に対して、勝つか負けるか、などということはないんです。
それだから、合気道においては常に相手がなく、相手があっても、それは自分と一体になっていて、自在に動かせる相手なのです」
愛の気持ちを持つためには、相手を受け入れることであり、相手を受け入れる前に自分を受け入れることです。
そのために自分を正当化したり偽ったりしないことが大切です。
悪いと思って行っている習慣は止めること、良いと思ったことは直ぐに行うことが自分に対する信頼を増す王道です。
自分は、自分が思っている以下の人間(理想とはかけ離れた人間)であると思う必要はなく、自分の実力以上に人に良く見せようとする必要もありません。
稽古の時に愛の力を養う鍛錬をするのです。
技が効かないからといって相手を無理に力一杯投げつけたり、無理やり痛くしたりするのは邪道です。
(心の中で自分の強さを相手に見せつけようとか、自分は強いのだとか上手いのだとかを自分自身に信じ込ませようとしていませんか?)
"I am OK. You are not OK." が体主霊従です。
"I am OK. You are OK." が霊主体従です。
"I am not OK. You are OK." と考える癖(潜在意識)も克服すべきです。
上手な人から教えられた時に、自分は出来ていなかったから注意されたのだと思うよりも、これは上達の一過程で、丁度良い時に学べたと喜ぶ方が良いと思いませんか。
合気道は、そのような喜びに満ちた武道です。
合気道は宇宙一杯に広がっている自分を見出す道です。
そこには相手も自分もなく、相手も自分も神の子(分霊)として存在します。
稽古の時に相手を一つに見て愛おしいと思うような稽古すると、取り受け一体を感じられるようになります。
力も120 %出すのではなく70〜80 %で出来るようになるために、70〜80 %で出来ない時には無理に投げないことも必要です。
何が何でも投げなければならないという考えを捨てて、一体感が味わえる稽古をしたいと思います。
「昨日の我に今日は勝つ」(柳生石舟斎)です。
合気道に試合がないというのは、より良い自分を作り上げるためです。
私が "I am OK. You are OK." の人格形成の鏡と思って尊敬している方がいます。
開祖の後に控えられた植芝吉祥丸二代目道主(1921〜1999)です。
開祖は「これは大変なことになった」と思って真摯に神示に応えられましたが、もう一人、自分に与えられた使命(苦難)を真正面から受け止められた方として吉祥丸道主を思い起こします。
神が与えられた苦難なら喜んで受ける方が人生の深い意味を悟れるようです。
「神が、此の者ならと思召した場合には、一段と高き試練の為、人世の谷底へ落し給いて、諸々の苦難を嘗めさせ、而して、
何ものにも動ぜぬ人格を造らせ給うものである。
然れば、かかる場合に際しては、神の御心を疑うたり、怪しんだり致してはならぬものと悟らねばならぬ」(凡庸の道)
「この至仁至愛の一大気の運化をもって合気の起源となす。
ゆえに至仁至愛、万有愛護の大精神をもって合気と名づくるものなり。
また、万有の生命宿命を通じ、おのおの万有の使命を達成せしむべく万有に呼吸を与え、愛護する精神を合気というなり」
「日本の真の武道とは、万有愛護、和合の精神でなければならない。
和合とは、各々の天命を完成させてあげること。
そして完成することです」