合気道開祖の教え

4)合気道創始の歴史

開祖は、73歳(注)の時に「それが七年前、真の合気の道を体得し、『よし、この合気をもって地上天国を作ろう』と思い立ったのです」と話されています。
単に『合気の道』ではなく『真の』と表現される程の研鑽を積まれる強い契機となったのは、昭和15年に受けた神示(神のみこと〔命、御言〕、ご命令)です。
「今の時代になって、神示によってはじめて現れたのが武産合気である」と言われているとおりです。
この神示は、『道統の起点』と言われています。別表3に開祖の年譜を示します。

開祖は、幾多(30流ほど)の武術を学ばれましたが、武田惣角先生(1860〜1943、大東流中興の祖。大東流の実際の創始者ではないかともいわれている)から学ばれた大東流は、開祖の武道に対する目を開かせてくれるものでありました。
「いえ、武田先生には武道の目を開いていただいた、といった方がいゝでしょう」と話されています。
これは、剛力自慢の開祖が、なす術もなく技をかけられた『合気』という技法の故でありました。
しかし、合気道は大東流やその他の武術を総合したものでも、『守・破・離』の過程を経て、それらの技に一工夫加えて一流を興されたものでもありません。
「合気道に形はありません。ずーっと以前は、いろいろの人々の熱誠をこめたところの武道をば、私も教えを受けたのでありますが、昭和15年(1940)の12月14日(開祖の誕生日)、 朝方2時頃に、急に妙な状態になりまして、禊からあがって、その折りに今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。 あらためて先祖(イザナギ・イザナミの神、道文に出てくる回数が一番多い)からの技をやらんならんことになりました」と話されていることからも、そのことをうかがい知ることが出来ます。
なお、開祖は2時間睡眠で足りたとのことなので、このような未明の修行も普通であったようです。

合気道の創始において、大本教の出口王仁三郎師(1871〜1948、大本では聖師と呼ばれている。 霊能者を超えた霊覚者)の影響は計り知れません。
大正8年(1919)、大本教の本部(綾部)を訪れ、王仁三郎師に初めて会った時に、「自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ」と言われています。
また、大正9年(1920)には「神人合一の武道を作りなさい」という王仁三郎師の命により、教団内に植芝塾を開設しています。
後年、開祖が、「私の真の姿を認めてくれたのは、五井(昌久)先生と出口王仁三郎聖師だけだ」と話されていることから、これらの王仁三郎師の言葉が、開祖を『神人合一の武道』創始へと突き動かせる強いきっかけになったことがうかがえます。

私は、開祖がお父様を亡くされた後、一人残されたお母様も含め一家を挙げて綾部に移住されていることには、王仁三郎師が「真の姿を認めてくれた」ことだけではなく、王仁三郎師から特別な力を体験させられたことも大きかったのではないかと思っています。
王仁三郎師は、霊術ともいえる力で初めての人にも霊視をさせることが出来ました。
「何か視えましたかな」「はい、肉づきのよい父でありますのに、透けるほどにたいそう細うなった父の姿が・・・」「あなたのお父さんは、あれでよいのや」という王仁三郎師と開祖の遣り取りが、それを物語っているのではないでしょうか。
このことがあって綾部に移られた開祖は、『霊界物語』の口述筆記(大正10年(1921)10月〜12年(1923)7月、65冊が口述)の場に立ち会われるなど更に感化を受け、鎮魂帰神、顕斎・幽斎修行に精力的に励まれたと理解すれば、 大正14年(1925)の宇宙との一体感(黄金体体験)もこれらの修行の結果と見ることが出来ます。

合気道が『地上天国建設(顕・幽・神三界を統一し、霊主体従の世に建て替える)』という今までの武道にはなかった使命にまで結びついたのは 大本教の教えから出ていますが、開祖は、これを武道的に完成させる道を確立されました。
社会的な命題は、開祖のご性格に根差したものでもあると思います。
即ち、『明治34年(1901) 漁業法反対・改正運動の磯事件に参加』『明治42年(1909) 南方熊楠の神社合祀反対運動に共鳴』などにその下地を見ることが出来ます。
神社合祀反対運動について、後に「わしはあの時、生まれてはじめて国事に奔走しとるのじゃという欣快を味わったものじゃ」と述懐されています。
ご臨終が近付いていた頃に枕頭に駆けつけられた方々に「合気道は、世のため、人のため、天皇陛下のため(今なら国家のため)」とおっしゃられた言葉もそうですが、 自分の都合を顧みないで社会に尽くすということは、開祖の人生を貫く大きな特質でした。
開祖の武道のセンスがずば抜けて優れていたとか武道好きであったとかいうことだけでは成り立たないのが、この合気道の創始です。

昭和17年(1942)に、道統の名称を『合気道』と宣するようになりましたが、ここでは、開祖が『真の合気の道』と言われたものについて取り上げているので、 昭和17年をもって神示による(真の)合気道の創始の時期とはしませんでした。
大正11年(1922)に『大東流合気柔術』の教授代理を許されてから『合気道』になるまで、名称が『合気武術』『合気武道』などと変遷していますが、 すべて『神人合一の武道』を創り上げる過程での変更だと思います。
昭和8年出版の『武道練習』の中の道歌に『合気十』という言葉が見られるので、『神人合一の武道』を『合気道』とする構想はそれ以前からあったものと思われますが、 出口王仁三郎師の示唆があったのかもしれません。

(注) 『合氣道』(昭和32年8月25日 光和堂刊)の「道主を中心とした或る座談会」の中で、開祖が「わたしも76になりますが」と話されているが、数えでも昭和32年で75歳なので、開祖が年齢を1歳間違えて話されたと推測し、この座談会は昭和32年のものと推定した。この座談会は誕生日(12月14日)以前に行われているはずなので、その時は満で73歳である。