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別表-3 開祖年譜 (参考 植芝吉祥丸著「合気道開祖植芝盛平伝」講談社昭和52年刊

開祖植芝盛平大先生・年譜

備考

明治16(1883)1214

植芝与六、ゆきの長男として 和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の和歌山県田辺市元町)に生まれる。
7歳頃から近くの地蔵寺護摩堂の私塾で藤本密乗師より四書五経の手ほどきをうける。真言密教の鎮魂法や熊野地方に伝わる弘法大師の奇跡説話に関心をいだく。

明治29(1896)33(1900) 13歳〜17

県立田辺中学に入学。一年後実学を志ざし退学。ソロバンを習い短期間で上達をし、田辺税務署に勤務する。

明治34(1901)35(1902) 18歳〜19

明治34年、税務署員でありながら、義憤に燃えて漁業法反対・改正運動の「磯事件」に参加。税務署を辞し上京する。
明治35年春、蔵前に「植芝商会」を設立し文房具、学用品の仕入れ販売を行う傍ら、起倒流柔術, 神陰流剣術を学ぶ。夏ごろより脚気にかかり、「植芝商会」を店員に譲り帰郷、糸川はつと結婚。

明治36(1903) 20

大阪第四師団管下第三十七連隊に入営。銃剣術は連隊一となる。

明治38(1905) 22

日露戦争に従軍。得利寺その他において戦功をたて軍曹に昇進。兵役の四年間、外出時に堺にある柳生流柔術の中井正勝師範の道場に通い免許を受ける。

従軍中、銃弾が飛んでくるのが「よう見える」体験をする。
柳生流柔術上級師範坪井政之輔師より中井正勝師範の手を経て免許を授かる。

明治40(1907)42(1909) 24歳〜26

自宅にあって農耕に従事する。納屋を改造して、道場を造り、高木喜代市師より講道館柔道を習う。
明治42年、南方熊楠翁の「神社合祀策反対運動」に大いに共鳴し活躍する。

明治45年=大正元年(1912) 29

「紀州団体」五十四戸、八十余名の団長となり北海道北見国紋別郡湧別村白滝原野増画地(現在の北海道紋別郡遠軽町白滝)に入植。未開の原野の開拓に着手する。

大正4(1915) 32

2月、所用で宿泊中の遠軽町久田旅館で大東流の武田惣角先生に会い、その秘技に感服して滞在を1か月延ばして教授を受け、その後同師を白滝に招いて私設道場を造り村内有志と共に研鑽修行を行う。

武田惣角先生に約5年間(久田旅館で30日程、白滝村に招いて100日間)大東流の教授を受ける。

大正6(1917) 34

523日、白滝村大火。以後一年間、復旧に不眠不休の日々が続く。

大正8(1919) 36

推されて上湧別村村会議員となり、復興の実をあげる。11月中旬、父危篤の報を受け帰郷の途次「綾部に出口王仁三郎(大本、48歳)という鎮魂帰神の大人物がいる」と聞き父の病気恢復祈念を乞う為綾部に立ち寄る。

12月の初会で、出口王仁三郎師から「自分にそなわった武術があるのだから、人が作った武術を習ってはいけませんよ」と言われる。

大正9(1920) 37

父与六の死後一家を上げて綾部に移住し、出口王仁三郎師の厚遇をうけ、鎮魂帰神、その他の幽斎修行、顕斎修行につとめる。同時に師に勧められて、「植芝塾」道場を開設する。この年長男武盛(3歳)、次男国治(1歳)を亡くす。

「神人合一の武道を作りなさい」という王仁三郎師の命により、教団内に植芝塾を開設。

大正10(1921) 38

627日、三男吉祥丸(二代目合気道道主)誕生。2 第一次大本事件発生。この事件は、植芝塾にはほとんど直接的影響がなかった。

1018日より『霊界物語』の口述が開始され、口述筆記の場に立ち会う。

大正11(1922) 39

武術の裏付けとなるべき精神性探求の手がかりとして、「言霊」の研究に没頭。気・心・体一致の境地を志向しはじめ、「合気武術」と呼称する(門弟その他一般には「植芝流合気柔術」の名で通った)。

武田惣角先生、家族と共に綾部の植芝宅に6か月滞在し、植芝塾で指導。王仁三郎師に言われ開祖が惣角先生に提案して大東流柔術を大東流合気柔術と改称。
915日、惣角先生から目録「合気柔術秘伝奥儀之事」を贈られ、「大東流合気柔術教授代理」を授かる。

大正13(1924) 41

万教同根の思想にもとづく世界経綸の聖地を満蒙に求めた出口王仁三郎師に従い渡満、廬占魁の西北自治軍と共に蒙古奥地に向かう。張作霖の計により中国官憲に逮捕され、一行は死刑に処されかかるが、在留日本人の通報により日本領事館員に救出される。この間再三にわたる死線の体験を通じて「弾丸よりも一瞬早く飛んでくる白い光のツブテ」を直感、直覚する。

<白い光のツブテ体験>
ビューンと音も聞こえた。

大正14(1925) 42

前年帰国後、しきりに神機発動し、その武術もにわかに「神技」のおもむきを呈し始めた。たまたま或日来場した剣道教士の海軍将校を相手にした時、将校の打ち込む太刀筋のことごとくがいち早く直覚され、戦わずして勝つの理を開眼する。その直後井戸端で行水中、突然全心身がすみきり、同時に天地より降り注ぎ、湧き上る黄金の気につつまれ、何時しか我と我が身もまた黄金体と化したかの感応を覚え、宇宙と一体となる神秘体験をする。この時を機に「真の武とは万有愛護の道なり」の理念、「気の妙用」の機微をつかみ、合気道として独自の発展をはじめることになる。綾部に植芝盛平という大武道家がいるという噂が日本中に広まり、多くの海軍軍人,武道家が入門する。早大柔道部の西脇秀太郎、富木謙治、歌人の柳原白蓮の入門もこのころである。
秋、竹下勇海軍大将に招かれ単身上京する。竹下邸で山本権兵衛伯爵(18521933、薩摩出身の海軍大将、海軍大臣として日露戦争を遂行した。元総理大臣)、島津公等を前にして演武を行い、山本権兵衛伯に「明治維新以来初めて活きた槍を見た」と大きな感動を与える。翌日山本伯の訪問を受け其の依頼で青山御所において宮内庁関係の柔剣道高段者に三週間「合気武術」の講習を行う。

<黄金体体験>
「我即宇宙」なる妙諦にめざめ、合気道を悟る特別な契機(きっかけ)となる。

大正15年=昭和元年(1926) 43

竹下勇大将の招聘により上京。宮中、陸海軍、財界の関係者に「合気武術」を指導。

昭和2(1927) 44

出口王仁三郎師のすすめにより、大本から離れ武道家として立つべく一家を上げて上京する。山本権兵衛伯の嗣子清氏の世話により芝白金猿町に住居を構え、近くの島津公爵邸下屋敷の玉突き場を改造した道場を提供され稽古を行う。

昭和3(1928) 45

芝三田綱町の内海勝二男爵邸隣の借家を提供され転居。八畳ふた間を改造して道場とする。高橋三吉、百武源吾、近藤信竹氏等の海軍将官(何れも海軍大将となる)が多く入門される。海軍大学の武道講師として招聘され、昭和12(1938)まで「合気武術」を教授する。

  昭和天皇の弟宮、高松宮宣仁親王(19051987)は、昭和9(1934)1110日、海軍大学校に入学され、昭和11(1936)1126日、卒業された。 「高松宮日記」・中央公論社刊第2巻 昭和9年の1115日、1122日、126日に植芝盛平先生、合気術のことが記されている。

昭和4(1929) 46

泉岳寺脇の家に移転。六代目菊五郎、猿之助、中里介山、松井松翁入門。

昭和5(1930) 47

目白台の仮設道場で教授。
10月、講道館の嘉納治五郎師範が来訪され、「これこそ私が理想とする武道、本当の柔道だ」と賞賛され、門下の望月稔、武田二郎両氏を入門させる。三浦真陸軍少将が道場破りにきて開祖の神技に感嘆、その場で入門する。同少将の依頼により、陸軍戸山学校の武道指導を行う。

昭和6(1931) 48

東京牛込区若松町102(現在の東京都新宿区若松町17-18)に80畳の道場が完成。「皇武館」として発足する。内弟子も船橋薫、湯川勉、白田林二郎氏等が頭角を現し、充実する。

昭和7(1932) 49

以後「皇武館」を中心として益々発展する。
726日、大日本武道宣揚会が組織され、出口王仁三郎師の懇請をうけて会長に就任。

昭和8(1933)10(1935) 50歳〜52

昭和85月、兵庫県朝来郡竹田町に本格的な道場を開設(大日本武道宣揚会竹田道場)。大本教関係者以外に一般にも開放された。
昭和10128日 第二次大本事件発生(幹部44人検挙、信徒1500人が取り調べられ、300人が身柄拘束。昭和11(1936)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検。その取調べ中に、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2。大阪府警察本部長 富田健治氏の尽力により、逮捕拘禁の危機を逃れる。

第二次大本事件を契機に、「大本」及び「大日本武道宣揚会」を離れることを余儀なくされ、独自に皇武会を発足し、距離を置いた。

昭和11(1936)14(1939) 53歳〜56

開祖の武道界における名声は益々高まり、従来称していた「植芝流合気武術(皇武と称されることもあった)」を「合気武道」と正式に呼称する。

昭和15(1940) 57歳 

前年より申請していた皇武館法人化の議が承認され、「財団法人皇武会」として厚生省より認可される。初代会長に竹下勇海軍大将、副会長は林桂陸軍中将、役員には、近衛文麻呂公爵,前田利為侯爵、二木謙三博士等の名前がある。陸軍大学、憲兵学校(合気武道のみが憲兵体術として正課に採用されている)海軍兵学校、海軍機関学校等でまた民間の工業倶楽部、交詢社等で政財界人に指導。

<神示>
誕生日の1214日に、天の村雲九鬼さむはら竜王の「我は植芝の血脈に食い込んでいるぞよ。我は合気の守護神であるぞよ。汝は伊豆能売となって、この世を禊がねばならぬ」との神示が降る。

昭和17(1942) 59歳 

7月 満州国建国10周年奉祝大武道大会に招かれ宣統帝溥儀の御前で演武。列席の日満軍官民に多大の感銘を与える。

<武産合気の神示>
猿田彦大神から「武産合気」の神示が降る。
道統の名称を「合気道」と宣する。

昭和18(1943) 60

思うところあり一切の官職、顧問等を辞し、茨城県西茨城郡岩間町(現在の茨城県笠間市)に引きこもる。

岩間町に合気神社建立。昭和19(1944)に完成。

昭和20(1945) 62

2月新武道編集長・高橋重敏氏開祖を岩間に訪問。新武道(旺文社刊)昭和204月号「植芝守高(盛平)氏に訊く・鍛錬に極みなし」掲載。

815日終戦。東京の本部道場は空襲による焼失から死守される。

終戦により財団法人皇武会道場の活動停止。
茨城県岩間町に合気道野外道場落成。

<白い幽体との稽古>
これを経て、武産合気を体得する。

昭和23(1948) 65

財団法人皇武会を改組し、29日文部省から「財団法人合気会」として認可が下りる。

昭和25(1950) 67

植芝道場で第一日曜日を合気座談会の日とし、開祖を中心として多くの有名人の講話、実演等が行われる。
4月合気会誌(合気道新聞の前身)創刊。

昭和26(1951) 68

42日 植芝吉祥丸二代道主の次男守央(もりてる・現合気道道主)誕生。

昭和27(1952)29(1954) 69歳〜71

ヨーロッパ、アメリカで合気道の普及と指導が始まる。
70歳前後になって、神韻縹渺たる「合気=愛気」の“神技”は絶品の域に達した。

<真の合気の道を体得>
69
歳の時、「よし、この合気をもって地上天国を作ろう」と思い立った。

昭和30(1955)33(1958) 72歳〜75

9月戦後初の一般に公開する演武会を日本橋高島屋屋上で五日間にわたり開催各国大公使を招待する。日本各地、官庁、会社に合気会支部がつくられ、普及が始まる。各大学に合気道部がつくられる。

昭和31(1956)に、「出口王仁三郎先生ぐらい偉い先生は知らんね」と述懐。
昭和33年から五井昌久師との親交始まる。「私の真の姿を認めてくれたのは、五井先生と出口王仁三郎聖師だけだ」という程の仲となる。

昭和34(1959) 76

4月合気道新聞創刊、毎号掲載される開祖の道文・道歌が合気修行者に深い感銘を与える。

昭和35(1960) 77

514日代々木山野ホールで財団法人合気会主催の第一回合気道演武大会が催される。以後観衆の増加に伴い会場が読売ホール、日比谷公会堂、に替わり昭和52(1977)以来日本武道館で行われるようになる。113日紫綬褒章を受章。

昭和36(1961) 78

2月ハワイ合気道会館落成記念式典に参加のため渡米。ハワイ各地で演武と講習。
411日帰国。関東学生合気道連盟、関西学生合気道連盟、全国学生合気道連盟、防衛庁合気道連盟等 の名誉会長となる。

昭和42(1967) 84歳 

財団法人合気会 合気道本部新道場落成。

新道場落成のお祝いに、五井昌久師から「神の化身」(下記)の額を贈られる。

昭和44(1969) 86歳 

426日午前5時逝去 同日付けで「正五位勲三等瑞宝章」が贈られる。
52日東京青山斎場で神式により告別式が行われる。
同年626日開祖夫人はつ逝去。墓所は植芝家の菩提寺である和歌山県田辺市の高山寺にある。同寺より戒名「合気院盛武円融大道士」が贈られる。

神の化身 〜 植芝盛平翁を稱う 〜

其の人は確に神の化身だ
其の人は肉体そのまま宇宙になりきり
自己に対する相手をもたぬ

宇宙と一体の自分に敵はない
其の人は当然のようにそう言い放つ
五尺の小身
八十路(やそじ)に近い肉体
だがその人は宇宙一杯にひろがっている自分をはっきり知っている
如何なる大兵の敵も
どのような多数の相手も
そのまま空(くう)になりきっている
其の人を倒す事は出来ない

空(くう)はそのまま天御中主(あめのみなかぬし)
天御中主に融けきったところから
その人は守護神そのままの力を出だす
この人の力はすでにすべての武を超えた
大愛の大気のはたらき
鋭い眼光と慈悲のまなざし
その二つのはたらきが一つに調和し
その人の人格となって人々の胸を打つ

その人は正に神の化身
大愛絶対者の御使人(みつかいびと)
私はその人の偉大さを心に沁みて知っている

                                    五井昌久(白光真宏会 初代会長)